芸術家の役目とは、問いを投げかけることであって、それに答えることではない。
世の中は「あちらとこちら、どちらが正しい?」という、二項対立的な問いに溢れています。そんなあまたの問いに対峙するたび、ひとは直様「正しいのはどちらか」と思考しがちですが、そのジャッジをみるたびに、問いの立て方自体が間違っているのではないか、と常々私は思ってきました。世の中に、あちらとこちら、どちらかが絶対に正しいなんてことはまずない、にも関わらず、こうした曖昧な問いの立て方によって、わたし達の思考は度々誤った解釈へと誘われてしまう。ではどう問えばいいのでしょう。
たとえば、わたし達が“砂のかたまり”を“砂山”として見るのは、いったいどういう時でしょう。このとき気づくべきは、わたし達は「砂のかたまりは何粒から砂山か?」「10000粒の砂は、砂山か否か?」とは問われていません。にも関わらず、自分が応えやすい問いに変容させてしまう習性があるようです。正か否かを問うでなく、どのような場面にいるとそれを「正」「砂山」受け止めるのか、またはそれを「正」「砂山」として見るのはいったいどんな状況においてなのか。
このように、たんなる二分法に委ねるでなく、ふとした疑問であっても意味ある問いへ立て直すことのできる思考のプロセスが、答えそのもの以上に私たちにとっては、とっても大切ではないかと思っています。今日もいちりんあなたにどうぞ。
芸術家の役目とは、問いを投げかけることであって、それに答えることではない。
-アントン・チェーホフ
レースフラワー 花言葉「細やかな愛情」