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花を思いやる心

Posted on 2024/01/04

むかし昔、高田保という明治生まれの随筆家がいて、その高田が書いた新聞コラムに『ブラリひょうたん』というのがあります。その中に活花(いけばな)について書いた回がありました。「母の話」「ふたたび母の話」です。

活花には本来、形というものがない。形はそれが置かれた場所によって生まれるものだといつのである。天地人とか真行草とかのやかましい約束があるのだから、形式主義的なものかとおもっていたら大きに間違いらしい。さらにまた、活花がお客の眼に残るようではだめだというのである。
 床の間へ飾る。床の間の主人は何といっても掛軸である。花はそれを引立たせるためにあるのだから、掛軸が生きて花が消えるようにする。これが働きだと昔は教えられたものだというのである。(略)

高田保『ぶらりひょうたん』「母の話」

母の聞いた昔の活花の話を、もう一つ続ける。
 花は出来上りの一歩手前で活けなければならなかったのだそうである。活けた時に全部出来上っていたら、その時から花は崩れてしまう。出来上りの余地を残して、あとは花自身に任せて出来上らせる。明日の午後に客を迎えるための花だったら、丁度その時刻に出来上って、絶頂の勢いにあるように活けなければならぬ。そのためには問の抜けたすき間を花のために作って置いてやらなければいけない。(略)
 あとは花に任せる。だから母は自分で活けた花をいかにも楽しそうに自分でながめたものだった。任せたかぎりにはもう自分の活花ではないとして、その成行きを楽しむのは謙虚な精神である。この謙虚さのゆえにその楽しみは天真の清潔なものといって、さらに奥深く楽しめるというわけなのだろう。しかしこんなことももはや現代では歓迎されぬだろう。
 こうして活けた花がやがて絶頂を極める。それからは勢いが衰える順だが、その衰えを見せはじめると母は何の 躊躇もなく取捨てるのだった。私などの眼からみるとまだ鑑賞に堪えるものなのである。しかし母はそのたびに、衰えを人の目にさらさせるのは情なしだといった。これも活花の心得として教えられたのだそうである。(略)

高田保『ぶらりひょうたん』「ふたたび母の話」

今から70年も前のコラムですが、そこに登場するのは、当時すでに八十を越した母親から聞いたという、活花(いけなば)の話。

「目立たないように働いて他を引き立てるのが、花の役割というものだ」という控えめな主張には、当時の「自我を強調しない」といった思想だけでなく、日本文化の粋も感じられ共感を覚えます。また、

「間の抜けたすき間を花のために作って置いてやらなければいけない。」「衰えを人の目にさらさせるのは情なし」

この一文からは、先人の花への心配りを知ると同時に、おもわず嬉しさがこぼれました。というのは、花を朽ちるまで見届けたいという思いは、花への愛着である一方、現代人のケチな根性なのではないか、そんな思いがあったからです。(すみません)

花の価値とは、必ずしも物質的に残ることばかりではなく、それ以上に、印象や記憶の中に残る最盛期の美しさにある。かねてより、自らの中にあったこの主張が、これを読み、あらためて色濃くなった気がします。

相手の想像を埋め尽くさず、想像の余地を残して活ける。あとは花に任せる。それが物質を超えた花の美しさ、人の記憶になるだろう。

そんな心得と、昔の人の花を思いやる心に出会えた、ありがたい随筆です。今日もいちりんあなたにどうぞ。

ダリア 花言葉「感謝」

ダリア

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