花は誰のために
花韮(はなにら)が咲いていました。通勤の途中にある、なけなし花壇の一角一面が、花韮のあわ紫色に染めあがるのを見つけ、寒の戻り色、なんて思いながら、ああ桜もすぐだ、と思いながら、双六すすめた週末です。
「百花春至って誰が為にか開く」という禅語があります。
読みは「ひゃっかはるいたってたがためにひらく(百花春至為誰開)」です。
「花は誰のために咲くのだろうか」という問いかけですが、無論、花は誰の為でもなく、花であるから咲いています。なにか、特別な思い入れや目的があるからするのではなく、時期が来たから咲くにすぎません。春が来て、一斉に花が咲きだせば、鳥や虫の役に立ち、人間の眼や心も和ませてくれますが、花はただ自らの本分を全うしているだけ。この花韮もそう。
そんな花に「無心」という語をあたえ、自らの行いに重ね、心根の持ち方を真似してみようと、心得を模索する私たち。
けれどどうでしょう。「花は誰のために」と問うて「ただ花であるために」とは美しいですが、他方にある、何かをするたびに思い入れを持ち、なりきり楽しむことが出来るのも、私たち人間に与えられた特権ではないかしら。
思考思索することを楽しみ、変幻自在に心を遊ばせ、誰かのために花咲かせる歓びがある。そうした自由意思を持つことも、私たち人間の本分ではないかな、と思うのですが、どうかしら。
とは、日常において、平静でいることが苦手な自分への、稚拙な言い訳に過ぎないのですが、でも私には、「誰かのために」と咲くほうが、自由自在で居られるし、無心にもなれるし、そう在るほうが自分らしいし、喜び。そんなことを思いました。今日もいちりんあなたにどうぞ。
ハナニラ 花言葉「星に願いを」