マミラピンアタパイ
世の中には、日本語には直訳できない言葉や存在しない概念が多くあります。
エラ・フランシス・サンダース 著『翻訳できない世界のことば』には、他の言語に訳そうにも一言では言い表せない、各国固有の言葉が紹介されています。「マミラピンアパタイ」もそのなかのひとつ。
「マミラピンアタパイ」とは、もとはチリに伝わる先住民の言葉とのこと。
同じことを考えたり望んでいる二人が、お互い自らは何もしようとせず、どちらかがし始めるのを望んで、互いに見ていること。を意味します。
たとえば恋人同士が、同じことを求めあってると分かっていながら、どちらからも言い出さず、相手から伝えてほしいと、お互いに望んでいる状態。
思わず、わかってるなら言ってよ。なんて言ってしまいそうになるけれど、笑
このときの二人は「二人とも」言葉にしようとは思っていないんですって。
そんな「あたりまえの曖昧さ」を表現するのも言葉なんだと知って、ホッとしたのを思い出します。
いま私たちは、言葉以外にも様々な手段を使って、世界中の人々とつながりあっています。
けれどどうかしら。こんなに近密になっているけれど、本質的なところでつながりあう、同じものを感じ取るという体験を、私たちは望むように繰り返しているかしら。
そのような視点で世の中をみると、文化や人種などの様々なちがいから生じる「曖昧さ」に対して、私たちはあまりに潔癖になりすぎて、ときには乱暴に一方的な言葉で決着つけようとしている気がして、不安になります。
相手に対し、自分の気持ちに気づいてほしい、分かってほしいと思うのは自然ですし、そうした相互理解への欲求を満たすためにも、言葉はひとつの方法です。
その一方、このような捉えどころのない言葉もあり、するとコミュニケーションの手段において、言葉の解像度というのは、私たちが必要としているほどに、優先されるものなのだろうか。とも考えます。
社会的なシーンの違いや、言語化や可視化の必要性を理解しながら、必然ではないことを確認しながら、
ときにはこんな「あたりまえの曖昧さ」に触れることは、自分の不完全な情緒を育てるような気がして、それが人間らしさのような気がして、忘れたくないなと思うこの頃です。
マミラピンアパタイ、今日もいちりんあなたにどうぞ。
黄花コスモス 花言葉「自然美」