懐かしさと記憶
私たちの記憶にはいくつか種類がありますが、その中には「思い出そうとしなくても思い出してしまうもの」というのがあります。
その不思議な感情は、あまりいい思い出ではなかったとしても、今となっては「なつかしい」と思い出されるから、記憶とは不思議なものだなあと思います。
そんな懐かしさは「花」との記憶の中にもあり、田舎育ちにとっては、もっぱら身近にあった草花木との思い出です。
春になれば公園いっぱいに蔓延るシロツメ草をつんで編んだり、垣根のお茶の実あつめたり、ツツジをつまんで吸ったり、秋になればキンモクセイの香りに包まれた。おなじ道でおなじ場所で、季節になればそれをした、楽しい思い出。
一方、菊をつまんだ時の指に残った匂い、庭に咲いてた梔子の香り、彼岸花を束ねて差し出したときの記憶は、あのとき限りだけれど思い出すたび、口の中にほろ苦さが広がる記憶。
なのにほかより鮮明に思い出しては、胸は懐かしさでいっぱいになるのです。不思議ですね。
きっと長い歳月の中、様々な場面で再会した菊や梔子や彼岸花の景色が、あのたった一度の小さな記憶に結びついては、それぞれに意味をもたせて記憶になっているのでしょう。
まるで映画フィルムのようにつながって、あのほろ苦さもあいまって。
それはまるで「わたしという他人」を映画の中にみながら、彼女が手にした花に、古い記憶を想起するような感覚。何でもないことなんですけれどね、忘れるなってことかしら。
そんなことを思いました。ノスタルジックな大人のひとり遊び、秋ですね。今日もいちりんあなたにどうぞ。
キンモクセイ 花言葉「追憶」